タイのバンコク病院(Bangkok Hospital)内には、JMS(Japan Medical Service)という日本人専門クリニックがあります。レヌー・ウボン先生は日本で医師となり、現在に至るまで数多くの日本人患者さんをみてきました。レヌー・ウボン先生はJMSを創設したメンバーの一員であり、2009年にはそれまでの功績によって、日本国外務大臣賞を受賞しました。JMS創設の経緯や現在の取り組みなどについて、お話を伺います。

これまでの経緯

タイのマヒドン大学へ入学、1年後に日本文部省の奨学金制度で日本へ留学しました。
1年間、東京外国語大学で猛勉強し日本語を習得したのち、京都大学医学部で6年間学びます。卒業後は、京都大学医学部附属病院にレジデントとして2年間残りました。
タイへ帰国後、マヒドン大学附属の病院にて研修医を1年間、私立病院にて内科医として10年間勤め、2005年からバンコク病院で一般内科を担当しています。

バンコク病院内のJMS(日本人専門クリニック)とは

1977年の創設以来、日本人の患者さんのニーズに応えるクリニック

1977年に、バンコク病院内にJMS(Japan Medical Service:日本人専門クリニック)を立ち上げました。
当時、タイ国内で日本人の患者さんに対する受け入れ口は少なく、日本の医科大学を卒業した医師たちが非常勤で外来を担当していました。しかし、JMSの創設以来だんだんと医師が増えていき、バンコク病院の発展とともに、日本人の患者さんも数多く訪れるようになりました。

日本人の患者さんを対象に一般内科、健診、専門治療への調整を行う

現在わたしはJMSで、日本人の患者さんを対象に、一般内科と健診を担当しています。
また、患者さんが専門治療へ移行する際には調整役を担います。患者さんを総合的にみたうえで治療の可能性を模索し、専門治療の詳細を検討します。

・総合診療医として、健康診断から一般的な病気の治療を行う
・適切な治療のために、専門医と患者さんの間で調整役を担う

日本の性質、病気の傾向などを理解して治療にあたる

JMSに訪れる患者さんの多くは、タイに駐在している日本人で、病気としては糖尿病、高血圧、脳梗塞などの生活習慣病(食生活・喫煙・飲酒などの生活習慣がその発症・進行に関与する病気の総称)がよくみられます。
駐在員として外国に住むことは、慣れないうちは特にストレスになりえるため、精神疾患を同時に発症しているケースもみられます。その場合には、薬や生活習慣などの自己管理が困難になり病状が悪化しやすいことがあります。しかし、日本人の患者さんには真面目な方が多く、生活に慣れてくれば自己管理できるケースが多いです。

また、バセドウ病や関節リウマチなどの自己免疫疾患(免疫機能の異常によってさまざまな症状が起こる病気)は日本でみられる難病ですが、タイ人にはあまり発症しません。
このようにJMSでは、日本人の性質や病気の傾向を把握したうえで、治療を進めています。

なぜJMS(日本人専門クリニック)を立ち上げたのか

日本人がタイで適切に医療を受けられる環境をつくり、恩返ししたい

JMSができる前は、日本人がタイで満足のいく医療を受けるのは非常に難しいことでした。なぜなら、病状を詳しく把握し適切な治療を行うためには医師と患者さんの間にコミュニケーションが必須ですが、そこには言語の壁があったからです。
たとえば「お腹が痛い」という症状には、「ぐるぐるする」「キリキリする」「さしこむように痛い」「ねじれるように痛い」など幅広い表現があり、その症状によって診断は異なります。患者さんの症状を詳しく、そして正確に把握できなければ、適切な診断・治療は困難です。

「日本人の患者さんが適切に医療を受けられる環境をつくり、日本に恩返しをしたい」
私は、日本人の患者さんとタイ人の医療従事者の間に立つ、窓口を担おうと思いました。そのために、JMSを立ち上げたのです。
日本で習得した日本語を活かし、患者さんが悩んでいる状態を正確に説明する。そうすれば、タイにいる日本人はもっとよい医療を受けられると思いました。
現在、JMSで日本人の患者さんがスムーズに治療を受けられる環境を提供できることを嬉しく思います。

タイにおける病気・医療の変遷

主要となる病気は、2000年頃に比べて大きく様変わりした

2000年頃、タイではマラリア、アメーバ赤痢、アメーバ性肝膿瘍などの熱帯病や、肺結核、薬疹などの病気が多くみられました。しかし、現在(2018年時点)は糖尿病、高血圧といった生活習慣病や、脳梗塞、大動脈解離、悪性腫瘍(がん)などが多くなっています。
現在マラリアの国内感染はなく、海外渡航先で感染して持ち帰ってくるケースがほとんどです。

マラリア
マラリア原虫というきわめて小さな寄生虫に感染することで発症する病気です。初期症状として、高熱 (38度後半から40度前後)、熱にともなう悪寒、頭痛、筋肉痛、関節痛、下痢、嘔吐などが挙げられます。症状が重くなると、意識障害・低血糖・腎障害・多臓器不全といった症状が引き起こされることがあります。
アメーバ赤痢
赤痢アメーバ(Entamoeba histolytica)という寄生性の原虫が原因となって引き起こされる病気をさします。赤痢アメーバの嚢子(シスト)に汚染された飲食物を経口摂取することで感染します。現在は、発展途上国において感染の頻度が高くみられます。
アメーバ性肝膿瘍
肝膿瘍とは、細菌や原虫、真菌が肝臓内に侵入してそこで増殖し、膿が溜まってしまった状態のことをさします。肝膿瘍のうち、アメーバ赤痢を原因とするものをアメーバ性肝膿瘍といいます。
肺結核
肺結核とは、結核菌に感染して発症する肺の感染症をさします。肺結核では、2週間以上持続する咳が出ます。ほかにも、体重が減る、だるさが続く、血の混じった痰が出る、寝汗がひどい、発熱が続く、などの症状が出るケースもあります。
薬疹
薬疹とは薬を内服、注射することで生じる発疹のことをさします。通常、薬は重い副作用が出ないようにつくられていますが、体質によってごく一部の方は特定の薬に対して重篤なアレルギー反応を起こしてしまうことがあります。
大動脈解離
心臓から全身に血液を送る、最も太い動脈である大動脈の壁(血管壁)に血液が流れこみ、外膜・中膜・内膜の3層になっている大動脈壁の内膜に亀裂が入って中膜が急激に裂けていく(解離する)病気です。

タイでは年間を通して下痢の患者さんが多くみられる

日本で風邪が一年中みられることと類似して、タイでは年間を通して下痢の患者さんが多くみられます。タイで起こる下痢の原因には、ロタウイルスやノロウイルスへの感染、辛い飲食物・冷たい飲食物の摂りすぎなどがあります。

介護施設「Elderly Care Nursing Home」について

2008年に創設し、さまざまな国の患者さんを受け入れている

2008年から、介護施設「Elderly Care Nursing Home」を運営しています。当介護施設は、病気の治療後に後遺症が残っている、アルツハイマーなどの認知障害を抱えているといった理由で自宅療養が難しい方々を、幅広く受け入れています。
現在(2018年時点)、日本人の患者さんは3名入院しており、ほかにもカナダ、イタリア、香港、イギリス、シンガポールなど、さまざまな国の方々が入院しています。
入院期間に制限はなく、なかには9年入院している日本人の患者さんもいます。

Elderly Care Nursing Homeに入居される方には、さまざまな状況・背景があります。
たとえば、タイで発病後に退院したが母国に家族がいないためそのままタイで最期を迎えたい、母国で発病した親を子どもがタイに呼び寄せて介護をする、あるいは最期を一緒に過ごしたい、といったケースなどがみられます。

タイには日本でいう老人福祉施設が存在しなかった

以前、タイには日本の老人福祉施設に相当する施設はありませんでした。そこで、Elderly Care Nursing Homeを創設し、幅広く患者さんを受け入れることにしました。
当時、認知障害を持つ患者さんを受け入れる介護施設はタイに前例がなく、当初は患者さんが窓ガラスを壊してしまった、患者さんがベッドから落ちたといったトラブルが多発し、たいへん苦労しました。しかし、そのたびに患者さんをよくみて学び、理解を深めていきました。試行錯誤の末、現在の形に行き着きました。

入院から看取りまで、すべての過程に介入する

私自身はこれまでElderly Care Nursing Home で、20名以上の日本人の患者さんを看取ってきました。
当介護施設は、病気の治療や介護はもちろんですが、患者さんの入院から看取りまで、すべての過程に介入します。具体的には、お葬式の場所や費用、遺骨の保管など、死後の対応について、生前に患者さんとよく相談します。また、必要に応じて寺院や外務省と連絡を取ることもあります。

高齢者医療のニーズが高まる一方で、専門の医師は不足している

タイでは徐々に高齢化が進み、高齢者医療のニーズは高まりつつあります。しかし、一方でタイには慢性期(病状が安定し、長期的な治療が必要な時期)病院が少なく、高齢者医療の経験を持つ医師が不足しているという現状があります。
現在はまだ、患者さんの終末期をケアするホスピス医という概念は浸透していませんが、今後は徐々に、ホスピスへの理解が深まることを期待しています。

タイの医療について—現状・今後の展望

患者さんの状態を総合的にみる内科医が治療に介入する

タイの医療現場では長らく、専門性の高さ(スペシャリティ)を重要視する傾向がありました。そのためタイでは、ある臓器・病気に特化した専門医(スペシャリスト)が数多く活躍しています。
しかし一方で、適切な診断・治療を行うためには、患者さんの状態を総合的にみる内科医が治療に介入することが必要不可欠であると考えます。なぜなら、人の体にはあらゆる臓器が存在し、その1つ1つを単独でみるだけでは、適切に診断できないことがあるからです。
そこで、バンコク病院では内科医が患者さんを総合的にみて、治療にかかわるシステムを構築しています。

バンコク病院の新たな取り組み

内科医がホスピタリストとして治療に介入する体制を整えていく

バンコク病院では、内科医と専門医の双方が治療に介入する体制を整えています。
内科医は、ホスピタリスト(病院に常駐し、特定の診療科に属さずにあらゆる疾患を総合的にみる医師)として、適切な診断・治療をサポートします。
ホスピタリストには患者さんの状態を総合的にみる役目があり、ときに主治医である専門医に意見することが求められます。特に手術に関する判断については、ホスピタリストの確認が必要になります。
しかし実際には、若いホスピタリストが専門医に意見をするのが難しい場面もあります。そのため今後は、経験豊富なホスピタリストを採用する、あるいはホスピタリストを育成することで、より適切な診断・治療を進めていきたいと考えます。

レヌー・ウボン先生からのメッセージ

まずは自身で健康・生活をきちんと管理し、病気を未然に防ぐことが大切です。
また、少しでも気になる症状があれば、放置せずに病院を受診しましょう。